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文化人がこよなく愛した名湯 白骨温泉×中里介山

「3日入れば、3年風邪をひかない」と言われる程、霊泉的効能が高いとされる白骨温泉。『大菩薩峠』の作者である中里介山もまた、白骨温泉の湯と周囲に広がる絶景に魅了された一人です。

地方新聞の連載から誕生した大ヒット作『大菩薩峠』

大菩薩峠

1885年(明治18年)、多摩川畔の水車小屋で生まれたと言われる作家、中里介山。幼少時代に故郷を失い、貧しく辛い経験をした中里介山は独力で勉強に励み、教員になります。

上京後は、キリスト教や社会主義運動に関心を抱くようになりますが、日露戦争後、運動を退くと、関東の地方紙である都新聞社へ入社することに。

新聞社で才能を開花させた中里介山は、新聞紙上で『氷の花』、『高野の義人』など次々と作品を発表。1913年(大正2年)に連載を開始した『大菩薩峠』が大ヒットとなり、新聞社を退社し、本格的に執筆活動に没頭していきます。

大菩薩峠

中里介山

大菩薩峠は、山梨県甲州市と小菅村にまたがる日本百名山のひとつ、大菩薩にある峠です。春にはサクラやモモ、スモモの花が咲き、桃源郷のような情景に包まれます。

また大菩薩の尾根からは、富士山をはじめとした南アルプス、乗鞍岳(のりくらだけ)、八ヶ岳、奥秩父の山々など、季節ごとの絶景を満喫することができるでしょう。

小説『大菩薩峠』は幕末時代、主人公である盲目の剣士、机龍之介が甲州の大菩薩峠から旅を始め、自身の周囲の人間模様や、旅路の様子を描いた長編時代小説です。

1913年(大正2年)に都新聞に連載をスタートしたあと、毎日新聞や読売新聞など、およそ30年にわたって連載。しかし、中里介山の死により、作品は未完のまま終わってしまいました。

「五彩絢爛」と中里介山が絶賛した白骨温泉

長野県のほぼ中央、松本市を抱くようにそびえる、乗鞍岳の東側山腹に湧出する白骨温泉。開湯の歴史は定かではありませんが、鎌倉時代に北陸地方と幕府をつなぐ最短コースとして鎌倉往還が開かれたときには、すでに湧き出ていたと伝えられています。戦国時代には、乗鞍岳の麓に武田信玄が銀山を開発、負傷した武士や銀山の従事者が湯治に訪れていたことも容易に想像がつきます。

江戸時代には、湯宿が軒を連ねるようになり、霊験あらたかな秘湯として多くの湯治客の傷を癒しました。

秘湯として親しまれていた白骨温泉が、広く世間に知れ渡るきっかけとなったのが、中里介山作の『大菩薩峠』でした。作品に登場する主人公の机龍之介は、保養のために白骨温泉に滞在します。

「やがて白骨の温泉場に着いて、顧みて小梨平をながめたときはお雪もその明媚(めいび)な風景によって、さきほどの恐怖が消えてしまいました。(中略)殊に、龍之助はここへ着くと、まず第一に、『これから充分眠れる』という感じで安心しました」と作品の中でつづられています。あたかも、懐深き白骨温泉の自然に抱かれ、身も心も癒されていた中里介山自身の実感がこもっているかのような表現です。

また中里介山は、白骨温泉一帯の情景について「五彩絢爛(けんらん)たる絶景」と絶賛し、その雄大な自然に、大いに心を動かされました。

ちなみに、中里介山が滞在していた当時は、現在の白骨温泉の温泉地は「白船(しらふね)」と呼ばれていたとか。中里介山が作品で「白骨(しらほね)」と表現してから、現在の呼び方が広く浸透していったと言われています。

白骨温泉

白骨温泉

白骨温泉の湯は、見た目の違いとして大きく、無色透明の湯と白濁した湯の2種類があります。

湧き出したときには湯は透明ですが、白骨の温泉は、空気に触れて白くなると言われるように、時間の経過と共に乳白色に染まっていきます。

湯の成分の多少や温度など、源泉によって違いが見られる他、寒暖差や浴槽の条件、源泉から浴槽までの距離など様々な状況によって色彩が変化するそうです。

中里介山文学碑

中里介山文学碑

白骨温泉観光案内所から徒歩1分程の所に、中里介山文学碑が建立されています。これは、作家の白井喬二(きょうじ)が中里介山をしのんで建てた石碑と言われています。

また、中里介山が絶賛した「五彩絢爛たる絶景」にふさわしい情景が見られる場所には、案内看板が設置されています。